グラフは、大統領2期目、1年目の米株価(S&P500・ダウ平均株価)のパフォーマンスを集計した表です。平均パフォーマンスはマイナスとなっていますが、1985年のレーガン政権以降は素晴らしいパフォーマンスを記録しています。この記事では、各年の金融環境をまとめていきます。
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【米株チャート】S&P500の季節性 大統領サイクル(4年目)
2013年|第2期オバマ政権 1年目
2013年のアメリカ株式市場は、経済の回復基調、金融政策の支持、国際情勢の安定化が相まって、非常に好調な年となりました。この年、S&P 500指数は約30%上昇し、ダウ・ジョーンズ工業株平均も大幅な上昇を記録しました。
まず、アメリカ経済の堅調な回復が株式市場の上昇を支えました。労働市場の改善が顕著で、失業率は年初の約7.9%から年末には約6.7%に低下しました。企業はリーマンショック後の不況期を脱し、新たな雇用を創出する動きを強めました。これにより、消費者の購買力が高まり、個人消費が刺激されました。個人消費はアメリカのGDPの約70%を占めるため、これが経済全体の成長に寄与しました。また、住宅市場も回復し、住宅価格は平均で約13%上昇しました。住宅価格の上昇は、住宅所有者の資産価値を増やし、消費者信頼感を高める要因となりました。
金融政策も市場の好調さを支えました。FRB(連邦準備制度理事会)は、量的緩和(QE)を継続し、毎月850億ドルの長期国債や住宅ローン担保証券を購入して市場に資金を供給しました。これにより、低金利が維持され、企業の資金調達コストが低減しました。結果として、企業は設備投資や事業拡大に積極的になり、株価の上昇につながりました。2013年の終わりには、FRBが量的緩和の縮小(テーパリング)を発表しましたが、これは経済の回復が順調であることの証左と受け取られ、市場はこれをポジティブに評価しました。
国際的には、欧州では特にPIIGS諸国(ポルトガル、イタリア、アイルランド、ギリシャ、スペイン)が債務危機から立ち直りを見せ、ユーロ圏全体の経済が安定化し始めました。欧州中央銀行(ECB)も金融緩和政策を継続し、市場に安心感を与えました。中国をはじめとする新興国経済も堅調な成長を続けました。特に中国では、政府がインフラ投資や消費拡大を進める政策を打ち出し、安定した経済成長を実現しました。これにより、世界全体の経済成長見通しが改善し、リスクオンの投資環境が強まりました。
2013年には、シリア内戦やイランの核開発問題などの地政学的リスクが存在しましたが、これらは市場に大きな影響を与えることはありませんでした。また、新興国からの資本流出懸念もありましたが、アメリカ市場の強さがこれを相殺しました。こうしたリスク要因は、市場の楽観的な見通しを大きく揺るがすことはなく、株式市場の上昇基調は維持されました。
このように、2013年のアメリカ株式市場は、内外の経済環境の改善とFRBの巧みな金融政策運営によって、投資家にとって非常に好ましい年となりました。経済の回復、政策の支持、国際情勢の安定が相まって、株式市場は力強い成長を遂げたのです。
2005年|第2期ブッシュ政権 1年目
2005年は、アメリカの株式市場にとってさまざまな要因が交錯する年でした。ジョージ・W・ブッシュ大統領の2期目が始まったこの年、経済は全体として成長を続けていたものの、いくつかの重要なリスクと課題が市場に影響を与えました。
当時のアメリカ経済は、依然として堅調な成長を見せており、GDP成長率は約3.5%に達しました。これは、主に個人消費の増加によるもので、雇用市場も安定していました。失業率は約5%程度で推移し、これはほぼ完全雇用に近い状態でした。この雇用の安定は、消費者の購買力と信頼感を支える重要な要素となりました。さらに、企業の収益も安定しており、多くの企業が利益を増やしていました。
しかし、2005年には原油価格の高騰という大きな課題が浮上しました。特に、8月にハリケーン・カトリーナがメキシコ湾岸を襲い、主要な石油生産施設が被害を受けたことで、原油価格は急騰しました。この影響で、ガソリン価格が上昇し、消費者の負担が増しました。エネルギーコストの上昇は、輸送や製造業をはじめとする多くの産業にコスト圧力をもたらしました。これにより、企業の利益率が圧迫され、株価に対する下押し要因となりました。
金融政策においては、FRBがインフレ抑制のために利上げを続けたことが市場に影響を与えました。当時のFRB議長アラン・グリーンスパンは、政策金利を段階的に引き上げ、2005年末には4.25%に達しました。これにより、借入コストが上昇し、特に住宅市場においては抑制的な効果が表れました。これまでの低金利環境で活況を呈していた住宅市場は、利上げによって冷え込み始め、住宅価格の上昇ペースが鈍化しました。
国際情勢も市場に影響を与えました。イラク戦争の継続や中東地域の不安定化により、地政学的リスクが高まりました。また、中国をはじめとする新興国経済の成長が続く一方で、アメリカの貿易赤字が拡大しました。ドルの価値に対する懸念が増し、これが市場の不安要因となりました。
これらの要因が組み合わさり、2005年のアメリカ株式市場は不安定な動きを見せました。S&P 500指数は年間を通じてわずかな上昇にとどまり、投資家は慎重な姿勢を求められることとなりました。経済成長と企業収益の改善が市場を支えた一方で、エネルギー価格の高騰や金融政策の引き締め、地政学的リスクが市場の上昇を抑制しました。投資家は、これらのリスク要因を慎重に見極め、市場の動向を注視しながら戦略を立てる必要がありました。
1997年|第2期クリントン政権 1年目
1997年は、ビル・クリントン元大統領の2期目の初年度であり、アメリカ株式市場にとって非常に好調な年となりました。この年の株式市場の活況は、強力な経済成長、テクノロジー分野の急成長、国際的な投資環境の改善、そして慎重な金融政策によって支えられました。
アメリカ経済は1990年代を通じて拡大を続けており、1997年も約4%のGDP成長率を記録しました。失業率は約5%前後で安定し、これはほぼ完全雇用に近い状態でした。この安定した雇用状況は、消費者の購買力と信頼感を高め、個人消費が経済成長を支える主要な要因となりました。インフレ率も低水準で推移し、これは企業や消費者にとって好ましい経済環境を提供しました。
企業の収益も増加し、とりわけテクノロジー分野での成長が顕著でした。インターネットの普及が進み、シリコンバレーを中心に新興のテクノロジー企業が次々と台頭しました。これにより、NASDAQ市場は特に活況を呈しました。例えば、マイクロソフトやインテル、シスコシステムズなどの企業が大きく成長し、それに伴い投資家の注目を集めました。この動きは、いわゆる「ドットコムバブル」の序章と言えるものであり、IT関連株への投資が急増しました。
金融政策の面では、連邦準備制度理事会(FRB)が低金利政策を維持し、経済成長を後押ししました。当時のFRB議長アラン・グリーンスパンは、インフレを抑制しつつ成長を促進するため、慎重な金融政策を展開しました。低金利環境は、企業の設備投資や消費者の住宅ローンの取得を容易にし、経済活動をさらに活発化させました。
国際的な側面では、アジアの新興市場が引き続き高成長を遂げ、これがアメリカの輸出を後押ししました。ただし、1997年の後半にはアジア通貨危機が発生し、特にタイ、インドネシア、韓国などで金融市場が混乱しました。この危機は一時的に世界の金融市場に不安をもたらしましたが、アメリカ市場への影響は限定的でした。むしろ、アメリカの金融資産が安全資産としての需要を高め、ドル高が進行しました。
1997年のアメリカ株式市場は、国内経済の強力な成長、テクノロジー分野の革新、安定した金融政策により、投資家にとって非常に好調な年となりました。S&P 500指数は約31%上昇し、投資家の信頼感を高めました。国際的なリスク要因も存在しましたが、それらを乗り越えたことでアメリカ市場の信頼性は一層高まりました。このように、1997年は株式市場にとってエキサイティングな年であり、多くの投資家にとって利益を享受する機会が多かった年となりました。
1985年|第2期レーガン政権 1年目
1985年は、ロナルド・レーガン元大統領の2期目の初年度であり、アメリカの株式市場は力強い上昇を見せました。この時期は、レーガン政権の経済政策、いわゆる「レーガノミクス」が引き続き効果を発揮し、市場に大きな影響を与えました。
レーガノミクスは、供給側経済学に基づいた政策で、大規模な減税、規制緩和、そして政府支出の削減を柱としています。これにより、企業の投資意欲が高まり、経済成長が促進されました。1985年のGDP成長率は約4%を記録し、失業率も低下傾向を示しました。インフレ率は1980年代初頭の高水準から大きく低下し、安定した経済環境が整いました。こうした経済の安定は消費者の信頼感を高め、個人消費の増加につながりました。
株式市場においては、1985年はS&P 500指数が約26%上昇し、ダウ・ジョーンズ工業株平均も大幅な上昇を記録しました。この上昇は、経済成長と企業収益の改善に支えられたものでした。特に、製造業や金融業が力強い成長を見せ、投資家の注目を集めました。また、通信やテクノロジー分野でも新しい技術革新が進み、これが市場全体にポジティブな影響を与えました。
金融政策の面では、当時の連邦準備制度理事会(FRB)議長ポール・ボルカーは、インフレ抑制を目指して高金利政策を維持していましたが、1985年にはインフレが徐々に抑制され、金利も緩やかに低下し始めました。これにより、企業の借入コストが下がり、設備投資が促進されました。また、ドル高が進行し、これが一部の輸出産業にとっては課題となりましたが、全体としてはアメリカ経済の強さを示す要因とされました。
国際的な情勢では、冷戦の緊張が依然として続いていましたが、1985年には米ソ間の緊張緩和が進み始めました。レーガン大統領とソ連のミハイル・ゴルバチョフ書記長との間での外交交渉が進展し、地政学的リスクがやや和らぎました。これにより、投資家の国際的な不安感が軽減され、アメリカ市場への信頼が高まりました。
また、国内ではインフラ投資や軍事支出の増加が経済を支える一方で、財政赤字の拡大が懸念されました。しかし、当時の市場はこれを成長の一部とみなし、積極的な投資活動が続けられました。
1985年のアメリカ株式市場は、レーガノミクスによる経済成長、インフレの抑制、金利の緩やかな低下、そして国際的な緊張の緩和によって支えられました。これらの要因が相まって、市場は力強い成長を遂げ、投資家にとっては非常に有利な環境が整った年となりました。このように、1985年は、レーガン政権の経済政策と国際情勢の変化が市場に大きな影響を与え、株価上昇をもたらした年でした。
1973年|第2期ニクソン政権 1年目
1973年は、リチャード・ニクソン元大統領の2期目の初年度で、アメリカ株式市場にとって非常に困難な年でした。この年は、さまざまな経済的および政治的要因が重なり、株式市場に大きな影響を与えました。
まず、1973年は第一次オイルショックの始まりの年として広く知られています。10月に第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)が勃発し、アラブ諸国とイスラエルとの間で紛争が激化しました。この戦争を背景に、アラブ石油輸出国機構(OAPEC)は、アメリカや他の西側諸国に対して石油禁輸措置を実施しました。これにより、原油価格は短期間で4倍以上に跳ね上がり、エネルギーコストが急増しました。この急激な石油価格の上昇は、アメリカ経済全体に大きなショックを与え、インフレーションを加速させました。
インフレーションの高まりは、消費者の購買力を低下させ、企業のコスト構造にも重大な影響を及ぼしました。高いエネルギーコストは、製造業や輸送業をはじめとする多くの産業にコスト圧力をもたらしました。これにより企業の利益率が圧迫され、株価に対するネガティブな影響が強まりました。
加えて、アメリカ経済はこの時期、景気減速の兆しを見せていました。1973年のGDP成長率は前年に比べて低下し、景気後退の兆候が現れました。これに伴い、高インフレと低成長が同時に進行する「スタグフレーション」の状況が生じ、政策対応が非常に難しい状況となりました。連邦準備制度理事会(FRB)は、インフレを抑制するために金利を引き上げましたが、この高金利政策は経済活動をさらに抑制する結果となりました。高金利は企業の借入コストを増加させ、特に設備投資を抑制する要因となりました。また、消費者も高金利によって住宅ローンやクレジットの取得が難しくなり、消費活動が低迷しました。
政治的には、ニクソン政権はウォーターゲート事件に直面しており、これが政治不安を増大させました。ウォーターゲート事件は、1972年の民主党全国委員会本部への盗聴工作が発端で、ニクソン大統領の再選委員会が関与していたことが明るみに出ました。1973年には、この問題が深刻化し、上院での公聴会や特別検察官の任命など、事件の調査が進展しました。これにより、政権の信頼性が大きく損なわれ、市場に対する不安感が強まりました。
1973年のアメリカ株式市場は、こうした経済的、政治的な要因が重なり、大幅に下落しました。ダウ・ジョーンズ工業株平均はこの年に大きく値を下げ、投資家は不安定な市場環境に直面しました。第一次オイルショック、スタグフレーション、ウォーターゲート事件による政治的不安が組み合わさり、株式市場に対する信頼が大きく揺らいだ年となりました。このように、1973年は多くのリスク要因が交錯し、アメリカ株式市場にとって非常に困難な年となったのです。
1957年|第2期アイゼンハワー政権 1年目
1957年は、ドワイト・D・アイゼンハワー元大統領の2期目の初年度であり、アメリカの株式市場はさまざまな経済的および地政学的要因によって不安定な年となりました。この時期は、冷戦の緊張が高まり、国内外での変化が市場に影響を与えました。
まず、アメリカ経済は戦後の高度成長期にありましたが、1957年にはその成長が鈍化し始めました。GDP成長率は低下し、これに伴い景気後退の兆候が現れました。失業率はわずかに上昇し、消費者の信頼感が低下しました。この信頼感の低下は、特に耐久消費財や住宅市場において顕著であり、個人消費の伸び悩みが経済全体に影響を及ぼしました。
金融政策の面では、連邦準備制度理事会(FRB)はインフレを抑制するために引き締め政策を継続しました。これにより、金利が上昇し、企業の借入コストが増加しました。高金利環境は、特に住宅ローン金利の上昇を通じて住宅市場に影響を与え、住宅建設や不動産取引が減少しました。また、企業の設備投資も抑制され、これが経済成長の鈍化につながりました。
1957年には、国際的な緊張も市場に影響を与えました。特に注目すべきは、ソビエト連邦が10月に世界初の人工衛星「スプートニク1号」を打ち上げたことです。この「スプートニク・ショック」は、アメリカにとって大きな衝撃であり、技術的優位性に対する不安を生じさせました。これを受けて、アメリカは科学技術教育の強化や宇宙開発への投資を加速する必要性を感じ、これが予算や政策の面での大きな変化をもたらしました。冷戦下での軍拡競争が一層激化し、地政学的な不安感が市場に影を落としました。
加えて、アメリカ国内では1957年に公民権運動が活発化し始め、特にリトルロック高校における人種統合問題が全国的な注目を集めました。アイゼンハワー大統領は連邦軍を派遣して人種統合を支援し、これが公民権運動の重要な局面となりました。こうした社会的変化が国内の不安感を増大させ、市場に対する影響も無視できませんでした。
これらの要因が重なり、1957年のアメリカ株式市場は不安定な動きを見せました。ダウ・ジョーンズ工業株平均はこの年に調整局面を迎え、投資家は不確実な市場環境に対応する必要がありました。経済成長の鈍化、スプートニク・ショックによる地政学的緊張、そして金融引き締め政策が市場に対する信頼感を揺るがし、多くの投資家が慎重な姿勢を求められる状況となりました。
1937年|第2期ルーズベルト政権 1年目
1937年は、フランクリン・D・ルーズベルト元大統領の2期目の初年度であり、アメリカの株式市場は再び厳しい局面を迎えました。この時期は、大恐慌からの回復過程にあったものの、経済政策の変更と外部要因が重なり、深刻な景気後退が発生しました。
1930年代初頭の大恐慌を乗り越えるために、ルーズベルト政権はニューディール政策を推進していました。公共事業の拡大、金融システムの改革、農業支援などを通じて、経済は徐々に回復し、失業率も1933年の約25%から1937年には約14%にまで改善しました。これにより、経済は一時的に活気を取り戻し、株式市場も上昇基調にありました。
しかし、1937年に入ると、政府は財政赤字を削減するために支出を抑制し、同時に社会保障税を導入しました。これにより、個人消費と企業投資が減少しました。また、FRB(連邦準備制度理事会)は、インフレを抑制するために準備率を引き上げ、金融引き締めを強化しました。これが結果的に市場の流動性を低下させ、経済活動を一層抑制することになりました。
これらの政策の影響で、経済は再び後退局面に入りました。この「ルーズベルト不況」とも呼ばれる景気後退は、1937年の夏から秋にかけて株式市場に深刻な影響を与えました。ダウ・ジョーンズ工業株平均はピークから約50%下落し、投資家の信頼感を大きく揺るがしました。特に製造業や資本財関連の株式が大幅に下落し、多くの投資家が損失を被りました。
国際的な情勢も市場に影響を与えました。1930年代後半は、ヨーロッパでの緊張が高まっており、特にナチス・ドイツの台頭とそれに伴う軍事的拡張が国際的な不安要因となっていました。また、アジアでは日本の中国侵攻が進行しており、これもアメリカ市場に対する不安材料となりました。これらの地政学的リスクが投資家のリスク回避姿勢を強め、市場の不安定化を助長しました。
ルーズベルト政権は、この景気後退を受けて再び公共支出を拡大するなどの政策変更を余儀なくされましたが、1937年の市場の不調は、政府の経済政策が直接市場に及ぼす影響の大きさを示す重要な事例となりました。この年の経験は、経済政策の設計と実施における慎重さの必要性を浮き彫りにし、後の政策決定に影響を与えることになりました。
1917年|第2期ウィルソン政権 1年目
1917年は、ウッドロウ・ウィルソン元大統領の2期目の初年度であり、アメリカが第一次世界大戦に参戦した年として、経済と株式市場に大きな影響を与えました。この年の市場動向は、戦争参入による変化や国内外の政治的緊張の影響を色濃く反映しています。
4月にアメリカがドイツに対して宣戦布告したことで、経済は急速に戦時体制へと移行しました。これにより、製造業、特に軍需産業が急成長しました。鉄鋼、造船、鉄道などのセクターは、政府からの大量の軍需注文を受けて生産を急拡大しました。これに伴い、これらの産業に関連する株式は大きく上昇しました。特に鉄鋼業界では、アメリカン・スチールなどの企業が大きな利益を上げ、株価も上昇しました。
しかし、戦争の影響は一様にポジティブなものではありませんでした。戦時経済への移行に伴う不確実性が投資家の心理に影響を及ぼしました。戦争の長期化やそれに伴う戦費調達の必要性は、増税や国債発行の形で国民経済に重くのしかかりました。政府は戦争資金を調達するためにリバティ債を発行し、これが金融市場に影響を与えました。大量の国債発行により金利が上昇し、企業の借入コストが増加しました。これが一部の企業の投資意欲を削ぎ、株式市場全体の圧迫要因となりました。
インフレ率も上昇し始め、特に食料品や燃料など生活必需品の価格が急騰しました。これにより、消費者の購買力が低下し、経済全体の不安定感が増しました。生活費の上昇は労働者の賃上げ要求を引き起こし、これが一部の産業においてストライキや生産の遅延を招くこととなりました。
国際的な情勢も複雑さを増しました。特に1917年にはロシア革命が発生し、ヨーロッパの政治情勢が不安定化しました。これにより、アメリカの市場にも国際的な不安感が波及し、投資家のリスク回避姿勢が強まりました。
株式市場は、戦争関連の需要で一部のセクターが恩恵を受けたものの、全体としては不安定な動きを見せました。戦争参戦直後にはダウ・ジョーンズ工業株平均が上昇しましたが、その後は政治的、経済的な不確実性が影響し、波乱含みの展開となりました。
総じて、1917年のアメリカ株式市場は、戦時動員、インフレ、国際的な政治不安など、複数の要因が交錯した年であり、投資家にとっては非常に複雑で慎重な対応が求められる状況でした。このように、1917年はアメリカの経済と市場にとって試練の年であり、戦争が経済と市場に与える影響の大きさを示す年となりました。
1901年|第2期マッキンリー政権 1年目
1901年は、ウィリアム・マッキンリー元大統領の2期目の初年度であり、アメリカにとって重要な転換点となった年でした。この年は、経済の好調さと政治的な変化が交錯し、株式市場にも大きな影響を与えました。
当時のアメリカ経済は、19世紀後半からの急速な産業化と都市化の影響で活況を呈していました。鉄道の拡張、製造業の発展、そして移民の増加が経済成長を支えました。これにより、株式市場も比較的好調に推移し、多くの投資家が利益を享受していました。特に鉄鋼や鉄道関連の企業が市場を牽引し、投資家の注目を集めていました。
しかし、1901年は政治的な事件が市場に大きな影響を与えた年でもありました。9月にマッキンリー大統領が暗殺され、副大統領であったセオドア・ルーズベルトが大統領に昇格しました。この暗殺事件は、瞬時に市場に不安をもたらしました。投資家は政治的な不確実性に直面し、一時的に市場は動揺しましたが、ルーズベルトが大統領に就任した後は、彼のリーダーシップへの信頼が高まり、市場は安定を取り戻しました。
また、この時期は、アメリカが世界的な大国としての地位を確立し始めた時期でもありました。1898年の米西戦争後、アメリカはフィリピン、グアム、プエルトリコなどの領土を獲得し、国際的な影響力を拡大しました。これにより、経済のさらなる成長が期待され、国際貿易も増加しました。これらの要因が長期的には市場にポジティブな影響を与えました。
また、1901年には、J.P.モルガンが主導した鉄鋼業界の大規模な合併が行われ、USスチールが設立されました。これは当時としては史上最大の企業合併であり、資本市場における大きな出来事でした。このような企業活動の活発化も市場を活性化させました。
総じて、1901年のアメリカ株式市場は、経済の成長と政治的な不確実性が交錯する中で推移しました。マッキンリー大統領の暗殺という不測の事態が市場に一時的な影響を与えたものの、その後のルーズベルト大統領の就任により市場は安定を取り戻しました。経済の基盤が強固であったことから、株式市場は長期的には成長を続けることができた年となりました。